2011年11月25日金曜日

科学哲学の冒険


戸田山 和久

科学哲学の冒険―サイエンスの目的と方法をさぐる


さて、医学という科学はどのように正当化されるのか?

西洋医学と東洋医学、はたまた占い、まじないとはどう差別化されるのか?

真実など知りようはなく、所詮、信念に過ぎないのか?

そういった疑問の答えを得るために読んだ、科学哲学の入門書です。


まずは、演繹帰納の説明から入ります。

演繹とは、『AならばB、A、ゆえにB』(モードゥス・ポネンス)、
『AならばB、Bでない、ゆえにAでない』(モードゥス・トレンス)です。
前提に暗に含まれていた情報を取り出すのが得意で、
真理保存性がある一方(前提が真ならかならず結論も真)、
新たな情報量は増えません。

一方、帰納は、枚挙的帰納法、アブダクション、アナロジーの3つからなります。
枚挙的帰納法は、
『a1はPである、a2はPである、(きっと)すべてのAはPであるAである』
と、個々の事例から一般化することが得意技です。
アブダクションは、
『Hと仮定するとなぜAなのかうまく説明できる、(きっと)Hである』
と、一番よさそうな説明へと推論するのが得意技です。
アナロジーは、
『aはPである、aとbは似ている、(きっと)bもPである』
と、類比的に知識を拡張するのが特徴です。
3つの帰納は共通して、仮説を立てることが得意で、
真理保存性はありませんが、
情報量が増えます(結論には前提には含まれなかった情報が付け加わる)。


次に仮説演繹法が説明されます。
① 観察や実験から仮説を立てる(これは帰納)
② 仮説→予言(これは演繹)
③ 予言を実験や観察で確かめる
その結果、仮説は確証されるか、反証される。
④ 予言が確証されれば、仮説が正しかった。(これは帰納)
⇒仮説演繹法を正当化するためには、
『帰納の正当化』が重要である。と言うことになります。


そこで、次に、帰納に対する懐疑論(ヒューム)が紹介されます。
(読み始めた頃には帰納に対する懐疑が回避できるのかが、
知りたいことのひとつでした。)
帰納的推論を論理的に正当化することはできない(真理保存性はないから)
帰納を経験的に正当化することもできない
帰納を、『斉一性の原理』によって正当化することもできない
(自然はこれまで斉一性だったから、これからもそうだろうと推論しても、これも帰納的推論だから)
といったことが、帰納に対する懐疑論になります。


次に、帰納に対する懐疑論に対抗する反証主義(ポパー)が紹介されます。
① 推論を仮説の形で立てる
② 仮説から予言を引き出す
③ 実験により予言がはずれると、仮説は反証され捨てられる(反駁)。
④ 反証に失敗し続けると仮説は生き抜き、安定する。


次に、実在論について説明がされます。
まず、独立性テーゼとは科学と独立した世界の存在と秩序をみとめるもので、
知識テーゼとは、科学と独立した世界はあるが、科学によってそれを知りうるかに関しては、
反実在論は、知識テーゼを観察不可能な対象についてだけ拒否する。
広義の実在論は、独立性テーゼYesで
科学的実在論は、知識テーゼにもYes、
半実在論(操作手技、道具手技、構成的経験主義)は、知識テーゼにはNo。
観念論、社会的構成主義は、独立性テーゼにもNoと分類されます。

実在論を擁護する第一の論拠は奇跡論法である。
しかし、奇跡論法には、悲観的帰納法(あとから実は偽であるとわかる例があるから、
現在真であっても実在を正しくとらえている根拠はない)という強力な批判がある。

また、対象実在論という考え方があり、
対象に対する実在論と、法則に対する実在論とを分けて考える。
法則も、現象論的な法則と、基本法則の2種類に区分する。
対象実在論は、基本法則についてだけ、反実在論をとる。
観察不可能な対象でも、おおむね意図したとおりに介入できたり操作できたりする(操作可能性)。
それがその対象が現にあるということの最も強い根拠である。

また、意味論的捉え方という考え方もある。
モデルは実在システムそのものではなく、
実在システムが単純化されたリプレカである。
したがってモデルと実在システムの間には、類似関係が成り立つ。
類似関係は程度をゆるす関係であるため、悲観的帰納法を退けることができる。
意味論的捉え方を適用することで、
科学の目的とは、実在システムに重要な点でよく似たモデルを作ることだと言える。
帰納の妥当化は困難だが、擁護はできる。
そもそも、我々が住んでいる世界は帰納が役立つ場所なのである。


【感想】
ぼくは、科学的実在論が一番しっくりきます。
人間がどう真理を捉えようと、それとは別に一貫として世の中には真理が存在し(独立性テーゼ)、
科学とはそれを知りうる方法であるのだと思います。

ただ、科学によって、真理にどこまで近づけるかについては、懐疑的です。
やはり科学は帰納の問題から抜け出せないのが一番の理由です。
どこまでいっても、本当の意味で真理に到達することはできず、
真理の近似にたどり着いているかに関しても、最後はどこか、そう信じるしかないと思います。
そういった意味では知識テーゼにNoですが、反実在論ではありません。

対象実在論に関しても、基本的法則であっても科学によってこそ、
その法則に近づくことができると思います。
かといって、対象や現象論的法則であっても、
科学によって完全にそれを把握することができるかといわれると懐疑的です。
医学の世界では、操作できたり、観察できる対象に関する法則でも、
その事実が間違っていて、ひっくり返ることはよく経験することです。

ただ、真の意味で真理にたどり着けないからと言って、
科学を放棄すべきではないことは当たり前だと思います。
それでも真理にたどり着く最善な方法は科学であると思うからです。
科学とは意味論的な捉え方で、真理に近いモデルを作り、
真理に近づくことが目的だということは非常にしっくりきます。
しかし、どこまで真理に近づくことができたのかは、どうやって知るのでしょうか?
懐疑的悲観論が完全に除かれたわけではないし、最後は、信念が影響してしまう気がします。

というわけで、科学は真理の近似に近づく方法であると思います。
ただ、今自分が知っていることが、
どこまで真理に近づいているかはどうやって知ったらいいのかが、残された疑問です。

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