2012年10月20日土曜日

科学哲学入門

内井 惣七

科学哲学入門



科学哲学、3冊目です。

1番、教科書らしい内容で、いい意味では内容は濃く、
 
悪い意味では、内容難しいです。

 1番の特徴は、確率論、
 
とくにベイズの理論に関しての哲学的な説明が豊富な点です。
 
 
ベイズの定理は三つの確率
(1)問題の仮説の事前確率、
(2)その仮説を使わないときのデータの予測確率、
(3)その仮説がデータを予測する確率、からなる。
この場合、仮説の中でいわれた経験的(統計的)確率と、仮説自体に与えられた事前確率や事後確率(そして予測確率も入るかもしれない)は、同じ『確率』と呼ばれても種類が違うのではないだろうかと感じるかもしれない。
前者の確率は数少ない個別的現象からその確率を見出すことはできないが、数多く繰り返される現象を統計学的に研究すれば、その確率は客観的な規則性として取り出すことができる。
これに対して、『仮説自体の確からしさ』は、その判断に個人差が入り主観的であることをまぬかれない。
しかし、主観的要素の混入や、客観的かどうかという基準だけで両者が明白に異質だとは言えないのが『確率』の難しいところである。
統計的確率と、確証の度合いとを区別する必要があることは認めてよい。
後者は(統計的推理を含む)帰納の中心概念だというのが我々の考えなので、これを『帰納的確率』と呼んで前者から区別する。
二種を区別しても統計的確率によって帰納的確率が一義的に規定される場合もある。
つまり、統計的確率が客観的なら、対応する帰納的確率も客観的だということになって、ふたつは客観性という意味では異質ではないということになる。
議論のために統計的確率の『客観性』を認めるとすれば、統計的仮説の確証の場合、確率の個人差が入るのは仮説の事前確率のところだけである。
ある科学者の与える事前確率が両極端(0や1)のいずれかの値をとるということは、その人がどちらかの仮説を頭から正しいと確信してしまっており、いかなる経験的なデータからも学ぶ用意がないということを意味する。
これは、統計的仮説に限らず、一般に経験的仮説の確証の文脈ではきわめて不合理な探求態度であるとみなされよう。
とすれば、科学者の間で事前確率の個人差はあっても、この不合理な態度をとらないという了解があれば、統計的仮説の確証における個人的な意見の違いは、十分な観察データがそろえば無視できるほど小さくなっていくはずである。
 
ラムジーとデ・フィネッティによって提唱された主観説によれば、確率とは個々の人によって異なる信念の度合いである。
その信念の度合いをどのようにして計るかという疑問がたち浮かぶ。
これに関しては、たとえば賭を例にとると、賭け率に関しては、不利な賭け率と有利な賭け率が存在するが、有利でも不利でもない中立点、すなわち公平な賭け率もあるわけで、ある命題に対するある人の信念の度合いは、その命題に対してその人が公平な賭け率であるとみなす比によって計られるというのが主観説の基本的なアイデアである。
主観説では、単一事象や個別的命題の確率に意味を与えることもこの立場では容易である。
そこで、残る主要問題は、確率の統計的側面で特に目立つような確率の客観性をこの立場でどのように説明できるかということである。
これに対しては、デ・フィネッティの定理により、ベイズの理論を繰り返し使うことにより、『ある事象の未知の客観的確率が経験的観察によって見出されて確証される』ということが一定の条件をがそろえば、証明される。
 
 
うーん、うまく要約できません。
 
雑感としては、
 
もともとベイズ理論に親和性を感じていた僕には、納得がいく内容でした。
やはり科学とは、正当化できる真理を知りえることはどこか困難であり、
試行錯誤を繰り返し、ベイズ理論のもと、真理に近づいていこうとする行為なのでしょう。
 
医学においても、ひとつの疾患概念の全体像の真の姿に近づいていくというのは、
 
科学として同様に正当化されるのは理解できます。
 
ただ、目の前の患者、単一の事象に関しても、こうした確率的アプローチが
 
どのように正当化されるのか、まだよくわかりません。

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